ミソジになったので、

淑女を目指して三千里。

ミソジになったので、初恋の死を反芻してみた

こんばんは。ミルコです。

 

30年以上も地上で人間やってれば、触れれば痛む傷跡の1つや2つはあるもの。

思い出したくないからと鍵をかけて閉まっている人もいれば、積極的に人生の糧にしている人もいることでしょう。

 

今回は、私が人間初心者だったころ体験した、痛烈な初恋の記憶を掘り返してみる。 

 

 

1.小学校生活は通過儀礼が多すぎた

私は、家族から注がれる無償の愛に満たされた無敵の子供だった。少なくとも、小学校に入学するまでは、他人の悪意にさらされることもなく、平穏に生きていた。どちらかといえば優秀で、どちらかといえば恵まれていた。

 

「小学校とは人生最初の関門である」と言ったら、多くの人は頷いてくれるんじゃないかしら。だって小学生は、大人が思っているよりずっと複雑で大変なのだ。しかも、曖昧に微笑んで無視し合うような高等技術を持っているヤツなんて殆どいない。みんな全力でぶつかりあって、結果として弱い奴が淘汰される。大人がどんなに掬い上げようとしたって、弱肉強食の理そのものから離脱できる子供なんていないのだ。

 

私にとってもそれは同じことだった。むしろ、今までぬくぬくとした優しい世界で生きてきたから分、突然の弱肉強食世界に対応できなかった。

 

小学1年生のとき、私は天敵とも言える女の子に出会った。同じクラスの彼女は事あるごとに私につっかかり、負けん気の強い私もそれに応戦した。もちろん、リトルレディたる私は、口汚く罵ったり、引っ掻いたり、殴ったりもしなかった。今思えば、ぬるい内戦だ。

 

しかし、とある事件で事態は一変する。クラスで一番可愛い男の子に、私は恋をしたのだ。・・・というより、クラスの女の子全てが彼に恋していた。彼女だって例に漏れずだ。しかし、彼女はほかの誰とも違った。彼女は陰湿かつ効果的な恋の作法を、小学1年生の教室に持ち込んだのだ。彼が褒める子をさり気なく自分の引き立て役にしたり、彼が疎む子を一緒になって遠ざけたり、外堀を埋めてかかったり。とにかく彼女は静かに積極的だった。

 

とはいえ、小学1年生のやることである。大したことはできないし、そもそも6、7歳の男の子が真剣に恋愛を考える確率だって微々たるものである。

 

そうやって半年が過ぎたころ、努力が報われない(少女漫画的超展開に至らない)ことに焦れた彼女が起こしたのが「ラブレター音読事件」である。

 

2.ラブレター音読事件 

 事の発端は、私の机から「ラブレター」が盗まれたことだった。

当時の私は密やかに恋を楽しんでいた。彼への気持ちを、大変ドリーミーな言葉で手紙にしたりもしていた。渡すつもりなどさらさらなかった密書には、当然ながら宛名も差出人もない。ただただ、恋をしている少女の心情が綴られているのみである。

 

それが、盗まれたのである。

 

今なら、学校の机に無防備に置いておくほうがどうかしていると思えるが、悪意など存在しない世界の住人だった私は、密書を机に入れたままにしていた。きっと恋の「現場」に置いておきたかったのだろう。シチュエーションは萌えの燃料である。

 

密書が消えたのに気がついたのは、帰りの会の前のことだった。いつも机の一番奥に入れていた薄い水色の封筒がない。ただそれだけのことに、血の気が引く思いがした。私は静かに、注意深く周囲を見渡した。落し物として届けられているのではないか?掃除の時に捨てられてしまったのではないか?と、不安な気持ちを押し殺して教室の中を探し回った。

 

探し始めてから5分。私の密書が発見された。

意中の彼の机の中からだった。

 

その水色の封筒はみるみる内に開封され、ドリーミーな激甘ポエムが白日のもとにさらされた。朗々と音読したのは、彼の一番近くに陣取っていた彼女である。あのときの彼女の顔は、とてもとても楽しそうだった。

私はきっと、顔を白くしてその様子を見ていた。自分の中から飛び出した恋心が、水槽の外に飛び出してしまった金魚のように喘ぎながら死んでゆく。

恋心を手紙に書いたのが間違いだったのだと、強く強く自分を責めた。

 

全てを読み終わったあと、彼女はチェシャ猫のように笑って「ね、ミルコちゃん。素敵なラブレターだね?」と私に話かけた。その時になってはじめて、私は全ての原因がなんなのかを知った。そして、返事もできず彼女の手にある手紙を奪い取り、教室のゴミ箱に投げ込んだ。

完全なる失策である。

宛名も名前もない密書が、私が彼へ向けたラブレターとして公然のものとなり、そして、彼女の悪意を鮮烈に暴いたのである。

 

3.小学生の人生密度は失敗をうやむやにする 

結論として、彼女は性格の悪さを暴かれ(自爆したといっても過言ではない)、私はイタイポエマーであることが知れ渡った。プライドの高いリトルレディにあるまじき失態だったが、起こってしまったものは仕方ない。彼女への復讐すら忘れ、教室でビクビク小さくなって過ごした。

好きだった彼のことは、視界に収めることすらできなくなった。

だって、見つめていたら「おい、ミルコが見てるぜ!」みたいな空気になって、絶対に死にたくなる。大切にしていた気持ちが踏みにじられた挙句、治りかけの傷を毎日イジられるくらいなら、いっそ全てをなかったことにしたかった。

 

そうやって耐え忍ぶ日々を過ごしていたころ、急に彼女が転校することになった。

 

キラキラと希望に満ちた若い担任は、キレイな思い出として残るような彼女の花道を作りたがったが、クラスの反応は白けたものだった。「へー、転校。ふーん、そうなんだ」くらいのものである。

もちろん、小学校1年生にとって「転校」が想像しにくいものであったのも原因だ。明日からは会えなくなると言われたって、その重大さを認識できているとは言い難い。

 

だが、大人である担任は違う。転校する前の思い出がいつか「宝物」になると信じているのだ。担任はとにかくクラスの雰囲気をまとめ、そこそこにやる気のある「お別れ会」して、ハッピーエンドに持ち込みたかった。

だから、大衆の面前で秘密を暴かれ恋心を滅殺された私に対して、「彼女と仲直りをして、率先してお別れ会を進行してね」と要請した。群れ生活初心者(7歳)たる私にとって、担任の言葉は従うべき統率者の命令である。

屈辱と怒りと憎悪を押し殺して、私は彼女のためのお別れ会作りに邁進した。例のラブレター事件の仲直りも、した。もちろんパフォーマンスだったが。

 

そうして彼女は無事、「みんなと離れるのが寂しい」とかなんとか言ってべそべそ泣きながら転校していった。「親の転勤に振り回され、大好きな友達と引き離される可哀想な少女」役は、さぞかし楽しかったことだろう。手紙や寄せ書きを手に、引っ掻き回した場を華麗に退場した彼女を見送って、残された私は、私たちの日常に戻った。何事もなく、彼女のことなど思い出さない日々。

 

そして私たちは同じように、「ラブレター音読事件」も忘れた。

しかし、無かったことにはならない。

20年以上の時が過ぎた今でも、私の心には触れると痛む傷がある。

 

 

ミソジになったので、人生を振り返ることにした(20代)

こんばんは。ミルコです。

 

夢の中の私は、将来の夢について真剣に考えたことがなかった。きっと、今までの人生で切実に「何者かになりたい」と思ったことがないのだろう。それは幸せなことなのかもしれないし、とびきり不幸なことなのかも知れない。

 

過去を分析して幸不幸を論じるのはナンセンスだから、やめようと思う。

 

だって、時間は戻らない。

人生は一度きり、過去は変えられないのだから。

 

 

1.就活はしたけれど、就職できなかった

リクルートスーツに身を包み、説明会やセミナーへ出かけ、いろいろな業界業種の話を聞く。そういうルーティンをこなしていく中で、自分には必死さや懸命さが致命的に足りないということに気づき始めていた。

ゼミの仲間や友人が将来についての展望を語るたび、私はひっそりと自分を省みた。しかし、何もかもがしっくりこなかった。

 

「どんな仕事について、何を成し遂げたいのか?」

 

それに答える情熱って、どこから来るの?

私は甘えた学生気分のまま就活に挑み、結局就職できなかった。

 

印象に残っているのは、某コンサルティング会社の面接だ。代表との最終面接まで進み、小一時間話をした挙句、お互いに目指しているものが違うと笑顔で別れた。彼は人間を有限の資源と考え、私は人間を無限の可能性と思っていた。

今思うと大した甘ちゃんである。 

 

仕事への情熱を持つことも、お金のためと割り切ることもできないまま就活を続けていた私は、当然ながら落ちまくった。落ちるごとに気持ちは沈み、周りが就職を決める中で焦りもあった。それでも真剣になれないのだから、自分の楽天家っぷりには驚きを禁じえない。

 

内定をもらわないまま卒論をこなし、何も考えなくて済むよう卒業記念パーティの準備に明け暮れた。しかし、ここでも問題が立ち上がる。

3月11日。あの大地震だ。

 

卒パは延期され、私はまたしてもやることを失った。

 

迫り来る不安から逃げるように、美術展や博物館に通っていた。長い時間を経たモノの持つ静けさが、私を追い立てる世間の風から守ってくれるような気がしていた。軽い現実逃避である。

 

しかし、その行動が私の次のステージを決めた。

 

 

2.フリーランスという名の修羅道

行く末を決められないまま無為に時間を過ごしていた私は、とある美術館にて道に困っているご婦人に出会った。なんでも、道に不慣れで迷ったという。私は一瞬の迷いもなく彼女を案内することに決めた。彼女の上品で穏やかな雰囲気が、私の祖母を思い出させたせいかもしれない。

 

私はその日の予定を放棄して、一日かけて彼女と観光した。美術館や史跡をゆったりとめぐり、おすすめのレストランで休憩を取り、道すがら見つけたカフェで彼女の悩み事を聴いたり、解決策を一緒に考えたりした。

 

彼女は帰り際、駅の構内で見送る私を見つめ少しだけ不安そうな顔をした。私は憂いを払ってあげたくて、連絡先を書きなぐったカードを手渡した。普段なら絶対にしない所業である。

 

しかし、この行為が後日、私に思いもかけない仕事をもたらすことになったのだ。

 

地震のせいで式典がなくなり、簡易的な卒業式が行われたその日、見知らぬ番号からの着信があった。反射的に電話に出たのは偶然で、全てが運命に導かれていたとしか思えない。夢の中でさえ夢みたいだと思ったくらいだ。

それは、彼女からの電話だった。もしよければ、この前のお礼に「おいしい」紅茶をご馳走させてくれないか?という誘いだった。

私はお礼をされるほどのことではないと思いつつ、もう一度彼女に会いたいという一心で、彼女の誘いを受けた。

 

銀座にある某ティーサロンにて、私はまたしても彼女とのお茶会を楽しむ機会に恵まれたのである。

 

話をする中で、私がこの前提案した解決策が実を結んだということを聞いた。そして、新たな問題を仕事として解決して欲しいと依頼を受けることとなる。

それが、私の初仕事。アットホームな街の洋食屋さんで開かれる、参加者20名ほどの小規模な結婚式の企画・運営のサポートだ。

 

その日から、私のてんやわんやな人生が始まった。

 

思い出の場所で開く、ごく小規模な結婚式

長く音信不通だった友人を招いてのお誕生日会

理想のドレス探し

夢で見たスープの再現

イタリア人が美味しく食べられる日本食のレシピ探し

女性物の”セクシーな”白タキシードを見つける

女装デートのためのプランニング

生卵を使わないけど、それっぽい「すき焼き」

野菜で作るピタゴラスイッチ

科学博物館で賢く見せるための予習の手伝い

モンスターのぬいぐるみデザイン

インビテーションカードのデザイン

ウエディングブーケのアドバイス

プロポーズ作戦の実行班

底抜けに明るい離婚式

趣味友を探す手伝い

悩める人の相談に乗る

恋文の代筆

天涯孤独の老紳士への定期的かつ刺激的なお見舞い

 

20代が終わるまで、わけのわからない依頼から切実な相談まで、とにかくなんでも引き受けて実現してきた。もちろん、採算は取れない。

カツカツの予算のなかで、微々たるお金と信じられないほどの満足感を得た。スキルになったものなんて殆どないし、人脈になるかと問われても首を傾げざるを得ない。

 

だけどそれでも、充実していたと胸を張れる時間ではあった。

誰かに助けを求められたとき、手を差し伸べられる。その優越感が私を仕事に駆り立てた。

 

何度戻っても、やっぱり同じように彼女を助け、彼女の相談を聞き、彼女がもたらす不可思議な依頼に邁進したことだろう。

 

私の20代はそうして過ぎていった。

 

 

追記:「必要とされること」

それこそが私の人生のコアにあるものなんじゃないか。

私はずっと気付かなかったけれど、改めて振り返るとそう思う。あらゆるトラウマと苦い経験を混ぜ合わせた結果、誰かのために働くことで自分自身の存在意義を確認したいと思っているのではないかしら。

 

でもそれは本当に私の望みなのか? 

そういう疑問を抱き始めたころ、私は記念すべき30歳を迎えた。 

 

 

ミソジになったので、人生を振り返ることにした(浪人~大学時代)

こんばんは。ミルコです。

 

もしも、タイムリープして2度目の人生を歩むことが叶うなら、どんな人生をお望みかしら?

 

後悔があれば正したいと思うだろうし、今が最高なら間違わず”ここ”にたどり着きたいと願うのでしょう。私だって、再チャレンジできるなら訂正したいことや、やっておきたいことが山ほどある。

 

だけど同時に思うのだ。

 

タイムリープしたとして、本当に今とは違う人生にできる?」

 

1.正直舐めていた大学受験からの浪人生活

私は、大学受験のための勉強なんて殆どしたことがない。センター入試の対策はいくつか講座を受けたけど、講座の時間を乗り切る以外のモチベーションが上がらず、勉強の効率は最低値を下回っていた。

こういう根拠不明の漠然とした「なんとかなる」思考は、この頃から始まったのだ。人これを「思考停止」と呼ぶ。

 

高校の卒業式を終えて、私は肩書きをなくした。

花の女子高生時代は終わり、荒んだ予備校生活が始まったのだ。

 

勉強自体は嫌いじゃなかった。知らないことを学ぶのは楽しいし、やればできると示すのも好きだった。

ただ、男子生徒と同じ教室で授業を受けることそのものが憂鬱だった。しかも、人間関係はリセットされ、新たに教室内の人間関係を構築しなければならない。そもそも、中高6年間を通して、友達づくり初級かろうじて及第レベルの私である。知らない人に話しかけるのも怖いし、話しかけられるのも、視線を向けられるのも怖かった。

もはや妄想とも言うべき対人ストレスに耐えられず、授業をサボったこともある。両親には本当に申し訳ない。当時の私も、自分が恥ずかしくて仕方なかった。

 

そんな中、奇跡的に友人になったのが少し年上のまったりした女の子だった。彼女は医学部を目指していると言っていたが、お金持ちの両親が猛プッシュするからやっているというスタンスで、やる気もなければ覇気もない。殺気立っている他の生徒とは違うダウナーな雰囲気が妙に心地よくて、私は彼女と過ごすようになっていた。

 

予備校の近くの喫茶店で勉強しつつおしゃべりしたり、サボったりサボらなかったりしながら過ごす日常。何を目指して生きているのか、受験する大学選びにも情熱を向けられず、ダラダラと日々を過ごしていた。

 

しかし、時間は刻々と迫る。

 

2度目の大学受験で、私は無謀な学校1校と安牌1校を受けることにした。どちらも心理学部で、ネームバリューというよりは環境と教授で選択した。家から無理なく通える範囲にあって、面白い教授が授業をしている場所。そして、女の子が多い環境。

 

私は予備校での共学生活に疲れて、またしても女子校に通うことを選んだのだ。

臆病者と笑うが良い。

 

 

2.やっぱり女子大学は居心地が良い

怠惰な浪人生活を終えた先にあったのは、懐かしい女子校生活だった。

 

またしてもグループ衝突に怯える日々が始まるかもしれないと身構えていたが、拍子抜けするぐらい平和だった。大学生は学部によってフィルタリングが行われる上に、もう精神的に大人なわけだから当然といえば当然である。

 

私はとにかく授業を受けまくった。限界まで時間割を詰め、興味のあることは全て受ける勢いで選択した。外国語や法律、フランス文学、科学、考古学に統計学・・・。なにもかもが目新しく、なにもかもが楽しかった。

ハウスルールとしてバイトが禁止されていたこともあり、私はひたすら勉強した。今思えば、資格の勉強をしたり、語学を極めたりすれば良かったのにと思うが、まあ、未来を見通すことができない阿呆のすることなどそんなものである。

 

浮かれた私を調子付ける出来事のひとつに、恋人の存在がある。インテリメガネの背の高い男で、私より5歳年上だった。彼は私の人生におけるダークサイドの先生だ。固定観念を排除して選択肢を広げる方法は、だいたい彼から教わった。人生の師であり、愛しい元恋人であり、今は遠き心の友である彼について話すと、とてつもなく長くなるので、また別の機会にしようと思う。

 

大学生になって、彼氏ができて、まるで普通の女の子のように人生を謳歌していた私を追体験して思うのは、自分がとても刹那的な人間だということだ。1年先くらいは考えるけど、5年10年先のことなど考えない愚かな女。それは、大学を卒業してもそう変わらなかった私の欠点だ。

 

大学は楽しかった。

親しい友人もできた。

でも、それだけだ。

 

 

 

 

 

ミソジになったので、人生を振り返ることにした(小中高時代)

こんばんは。ミルコです。

 

私たちは苦もなく夢と現実の境界が確かなことを信じることができる。それはなぜなのだろう。

 

夢が脳の情報整理を担っているのだとすれば、高度に再現された「過去」を夢で見ることは、ほとんど現実を再体験することと同じなのではないか?

(・・・なんて暴論、笑っちゃうわよね。)

 

過去は変えられない、例え夢の中でも。

 

1.人間初心者に小学校はキツすぎる

夢の中で体験した小学生は、かなりハードだった。悪意なき世界の住人として暮らした6年間の常識が、何度打ち壊されたことだろう。人間は人間を貶めたり、傷つけたり、踏みつけにしたりしても笑えるのだという事実を、私は小学校で体験しながら学んでいくことになった。

 

初恋を滅殺された苦い思い出

外見コンプレックスのトラウマ化

習い事へのストレス

常に比べられ相対的に評価されることへの苦しみ

扱いやすいからといって押し付けられる雑務の山

嫌われたくないという臆病な心が起こす、無様な行動エトセトラ

 

細かく書くのは避けるが、とにかく小学校生活は私にとって苦行でしかなかった。もちろん、仲のいい友達は居たし、クラスの中では優等生的お姉さん役として信頼を得ていた。いじめられては居なかったし、成績だって悪くなかった。

でも、いつだって苦しくて逃げ出したかった。

 

小学生の私が逃げ込んだ先は、中学受験の世界だった。特徴的なデザインのバッグで有名な某進学塾に通い、成績が良ければどんな罵詈雑言も封殺できる世界で、同じ目標を掲げる仲間と切磋琢磨するのは楽しかった。点数は明確だしシンプルだ。足の速さも、可愛らしさも、喋り方も、持ってるものも、なにもかもが関係ない。ただ勉強さえすれば(成績さえ良ければ)、仲間として受け入れられていた。

それは、あらゆる場面で評価される小学校よりもずっと生きやすい場所だった。

 

不思議なことに、塾に通い出してからは小学校に通うのも苦ではなくなってきていた。煩わしいと思いながら委員会に精を出し、クラスメイトとの交流もしていた。

今になって思えば、塾に通うことで成績が底上げされていたことも、この平穏の重要な要素の1つだったのだと思う。たった1つでも自信があることがあれば、人は他人を恐れずにいられるのかもしれない。

 

中学受験を目指す仲間と共に、小学校4年生~6年生までの2年半を過ごし、私は「第一志望ではない」都内の歴史ある女子高に入学することとなった。

 

粗暴な男子と別れ、塾の友達のような子たちと一緒に、バラ色の学生生活を過ごせると期待に胸をふくらませていた。

 

 

しかし、現実は無情である。

 

 

2.複雑怪奇なパワーバランスに振り回される中学校

中小企業の社長令嬢が多いと言われる我が母校は、自尊心の高い愛された少女たちの巣窟だった。私はそこそこ恵まれた一般家庭の娘だったので、ちょっとクラス感の違う少女たちが水面下で行っている主導権争いにはノータッチでいられた。・・・最初のうちは。

 

慣れないセーラー服、人で混み合う電車通学、細かな学校のルールや広い校内の暗記・・・。女子校生活を初めたころは、ただ日々の生活に慣れるのに精一杯で、その他のことを気にしている余裕はまったくなかった。

しかし、余裕が生まれれば視野も広がる。

私は視線を自分からクラスに向け、やっとここが小学校と何ら変わり無い場所なのだということを知るに至った。むしろ、本音と建前を上手に駆使できるようになりつつあるという点で、小学校よりも厄介である。

 

私は恙無く仲良しグループの形成に成功し、そのままのほほんと学園生活を送ることとなった。外野ではいろいろな問題が起こり、瞬く間に解決していった。ドロドロとした内部抗争はノータッチに限る。それを学んだのは、痛手を負った後だったが、まあ、お概ね問題はなかった。

 

中学2年生の秋、「私とあの子、どっちにつくの!?」と迫られる時までは。

 

正直なところ、私は八方美人である。自分のこと以外はどうでも良いくせに、誰にも嫌われたくなくて、常に正解を出したいと思ってしまう。小心者で小賢しい。人に嫌われる要素満点の人間だ。その片鱗は、小学校のころからチラ見えしていたのだが、まあ、今は置いておく。

 

閑話休題

 

当時、私は4人グループに属していた。運動が得意で活発なA子、料理好きで大人しいB子、絵が得意で美人のC子、穏やかで読書好きの私、だ。

 

「ね、ミルコ。あの子、最近ちょっとヤな感じじゃない?」

 

そんなA子の言葉で始まった悪口のジャブは、日毎に過激さを増して私に同意を求めた。A子がムカつくと言っていたのは、同じグループに属するC子のことだ。C子はちょっと高圧的なところのある子で、自分のご機嫌を取ってくれる人がいないと不機嫌になるタイプだった。公平を期すために付け加えるが、C子の性格は悪くない。ただ、人より手間が掛かるだけだ。

私は別に気にならなかったが、A子にとってはC子の傍若無人(とA子は思っている)が我慢ならなかったらしい。A子は既に、同じグループだったB子にも同じ訴えをしており、B子も同意していたと言っていた。つまり、こっち側に付けば多数派になれるぞ、という同盟申し込みである。

 

同じ時期、C子からも「最近、A子が私の悪口を言ってるの。ひどいよね(ぐすん」という話を聞いていた。彼女は打たれ弱さを前面に出しつつ「ミルコは私を一人にしないよね?」という無言の圧力を発していた。

 

私は4人中2人がC子の敵に回るなら、自分はパワーバランスを取ってC子に付かなくてはならないのではないか?と愚考した。そして、そうすべく行動した。

 

結果、グループは私をはじき出して纏まった。

 

「それは狡くないか?」と思ったが、時すでに遅し。私は流浪の一匹狼になるしかなかったのである。

 

 

3.クラスが変われば人間関係もリセットされる

中学1年生にして女の園の洗礼を受けた私は、あの衝撃的な裏切りを引きずったりはしなかった。情勢は日々変わるものだと学んだのだ。驕れる者は久しからず、ただ春の夜の夢の如し、である。

 

入学して3年間、クラスが変わるたびに仲良しグループデビューをしては、つまはじきにされた。なんでも分かり合える仲良しグループに憧れる気持ちはずっとあったが、所属する女の子全員の気持ちを推理して合わせていくことができないのだから仕方ない。3回~5回くらい失敗して、やっと自分には向いていないのだと理解した。

 

中高一貫である我が母校において、高校生になることは特別なことではない。毎年のクラス替えの延長である。

そのことを踏まえて、高校生になった私は根本的な考え方を変えることにした。

グループに属さなくても、村八分にされないキャラを目指したのだ。悪口は言わない、静かで穏やか、人の話をよく聞き、公平だけど冷徹ではない、そんな特別好きになってもらうことはないけど嫌われることもない「安全な人間」になることにしたのだ。

 

結論を言えば、この目論見は成功した。薄い膜で隔てられた仲良しグループ同士の橋渡しや調停をする役として、永世中立的立場を手に入れたのである。これはかなり心が楽になるポジションだった。適度に必要とされ、都合よく使われ、誰にも捨てられない場所。

 

傷つきながらも目指す場所にたどり着いた私は、張り詰めた糸が緩むような安堵とともに、猛烈な悲しみに襲われた。私は友達を作ることができない人間なのだと、自分で証明してしまったように思ったからだった。

 

まぁ、しかし、その悲しみは杞憂だった。

高校2年のクラス替えで、私はその後10年以上も付き合い続ける女友達を得ることになったのだから。

彼女たちは、穏やかで誠実で、心の底から素晴らしい人たちである。もしも、彼女たちに仇なすものがあるなら、全身全霊をかけてたたきつぶす所存である。

 

閑話休題

 

高校はあらゆるエネルギーに満たされた閉鎖空間である。私のように渦に巻かれてボロボロになる人もいれば、良いエネルギーに乗っかって無敵の友情と輝く思い出を手に入れる人もいる。

 

夢の中で追体験しながら、「それを言ったらダメ」「その子は私を裏切るよ」「媚びたって友情を恵んではもらえないんだってば」と何度も自分に助言したくなった。

 

不滅の友情と信じたものが呆気なく崩壊して、仮病を駆使して家に逃げ帰った日

嘘をついた子の味方をしたがために信用を失った日

お揃いが羨ましくてこっそり持っていたブランドポーチを槍玉にあげられた日

つい知ったかぶりをして自己嫌悪に陥った日

修学旅行のグループ決めで余りものにされた日

先生が勝手に決めた体育のグループ発表で失敗した日

 

 楽しいことだってたくさんあったけれど、苦しい日々の痛みのほうが鮮烈だ。遠い過去の失敗を二度と繰り返さないと信じられても、あの痛みを抱えた学生時代の私が生きている限り、乗り越えることはできない。

 

だから、せめて、あの時の自分ごと愛せるようになりたいと藻掻くのだ。

 

 

 

 

 

 

ミソジになったので、人生を振り返ることにした(こども時代)

 

こんばんは。ミルコです。

あなたは、自分の人生を夢で見たとしたら、それが本当に夢だったと確信できる?

 

私が昨日見た夢は、まさしく「私の」夢だった。

人生をダイジェスト版で追体験しながら、過去の私を見つめるような多重視点の夢。

結末を知っているのに何もできないもどかしさと、今だから分かる私以外の気持ち。そして、今だからこそ分からない当時の私の気持ち。

そういうものを綯交ぜにして、混乱した朝を迎えた。

 

目が覚めて、少しだけ泣いた。

 

今朝から続く混乱を収束させるため、ここで一度人生を振り返って見ることにした。

 

  

1.愛され慣れた子供は「媚び方」を知らない

夢の始まりは、弟が生まれた年だった。

舞台は富士山の麓にある母の実家で、登場するのは当時の知り合い(家族も含む)総勢30名ほどだ。

 

妊婦だった母が退院した日のことを覚えている。晴れていて、私は「お姉ちゃん」になることを誇らしく思っていた。夢の中でも、赤ちゃんを抱いて帰ってきた母を、得意満面の笑顔で迎えた。

 

そして、2歳の私は溢れるほどに注がれていた愛情を半分以上失った。体感としては、0になった。これは予想外と言わざるを得ない。

 

私だって小さくてふやふやな弟のことは可愛かった。お姉ちゃんとして、小さな弟を守ってやるんだ!と意気込んでもいた。でも、そこまで、蝶よ花よと育てられた私にとって、名前を呼ばれるタイミングが10回から7回になっただけでも、死ぬほど悲しかったのだ。

それはもはや絶望と言っても過言ではなかった。

 

「あんなにも私をちやほやしていたのに、赤ちゃんが一人増えただけで、こんなに待遇を変えるなんて!」

 

大人たちに失望すると同時に、どうしたら失墜した地位を回復できるのかと一生懸命になって考えていた。

 

しかし、ただ存在するだけで愛されていた私には、どうしたら良いのか分からなかった。だって、ニコニコしてれば「かわいいかわいい」と言われ、ちょこっと抱きつけば撫でてもらえるのだ。煩わしいほどに私を見つめる大人たちが居て、いつだって誰もが私を褒めてくれた。「良い子」でいるだけでよかった時代の終わりが、私の「天然の」天真爛漫の終わりだった。

 

 

2.世界でただ一人の「私だけの」神さま

空前のベビー熱に浮かされた大人に、私の世界は木っ端微塵に蹂躙された。「ちょっと待ってね」と言われる機会が生まれ、一人ぼっちで居ても気づいてもらえない時間が増え、「しっかりもののお姉ちゃん」の役をしなければ褒めてもらえなくなった。

 

そんな中で、たった一人だけ決して変わらぬ「揺るぎない愛」を注いでくれる人がいた。神さまのように、どんな私でも愛してくれると確信できる人。それが、祖父だった。

 

私が一人で居るのを見つけて散歩に誘ってくれる祖父。

こっそりソフトクリームを食べに連れて行ってくれる祖父。

私の下手くそな歌をニコニコ聞いてくれる祖父。

いろんな物語を話してくれる祖父。

一緒にお昼寝をしてくれる祖父。

 

私の世界の全ては、祖父によって輝いていた。

手中の玉のごとく愛され慈しまれていた。そして私も、全力の信頼と尊敬をもって返していた。どんな狡猾な魔の手も、どんな清らかな天の使いも、祖父と私の間に割り込むことはできない。弟が成長して大人たちのベビー熱が引いても、彼らが私へ向ける興味関心が復活しても、もはやどうでもよかった。

 

しかし、私たちの蜜月はほどなく終焉を迎える。私たちの敵は時間だった。避けられぬ成長と老化が一緒にいられる日々を奪っていくのを、私はただ呆然と見送り、密かに恐怖したまま立ちすくんでいた。

 

 

3.「恐怖」に立ち向かえないこと

小学生になった私が祖父に会えるのは、長期休暇のときだけになっていた。学校に塾に友達に初恋に・・・、日々を忙しく過ごしていた私にとっては、長期休暇の度に会えるなら十分だと思っていた。けれど、祖父にとっては果たしてどうだったのか・・・。それを考えると、切なくてどうしようもなくなる。

大人になるのは、時に酷く苦しいものだ。

 

小学生時代に戻ろう。

 

いつからか、祖父は寝ている時間が多くなり、座っている時間が信じられないほど短くなった。私は、深く考えなかった。気づいていたけれど、見ないふりをしたと言っていい。前ほど多く物語をねだらなくなり、一緒にお昼寝をすることもなくなった。けど、相変わらず私は祖父が大好きで、祖父だって私を一等愛してくれていた。それは確信していた。

確信していたからこそ、その愛に胡座をかいていたのだ。

私は人が死ぬことを知っていたが、本当の意味で解ってはいなかった。

 

祖父が入院した日、私が感じたのは「恐怖」だった。私の神さまが消えてしまうかもしれないことに、恐れおののいた。そして逃げ出した。お見舞いに言ったのは数えられるほどしかない。大好きだと言いながら、失われゆく事実を直視できなかった。

 

私が言い訳をしながら「死にゆく神さま」から目をそらしている間に、祖父は死んだ。夏の盛り、花火の美しい夜だった。

 

「おじいちゃんが、なくなったって」

 

その一言は、叔母からもたらされた。

 

「帰ってくるのは遅くなるって。だから子供たちは、先に寝ていなさい」

 

ほかの誰かがそう言って、私は親戚の子供たちが集められた部屋に入れられた。安らかな寝息に囲まれても、私はちっとも穏やかになれなかった。指先が冷え、心拍数が上がり、呼吸がうまくできなかった。「帰ってくる?おじいちゃんが帰ってくるなら、迎えに行かなきゃ」と、そう思って布団の上にうずくまっていたけれど、「死人」を迎える気持ちになんてなれなかった。

というより、祖父=死人という意識が無かったのだと思う。私はきっと、退院した祖父を迎えに行きたい一心だった。

早く会いたい気持ち、罪悪感、悲しみ、愛おしさ、怒り、寂しさ。

その全てを抱えたまま、息を殺して障子の向こう側を伺っていた。現実的な問題に立ち向かう大人たちが、せわしなく動いている。すすり泣く声もするし、キビキビとした指示の声もしていた。誰も彼もが、自分の役割に没頭していた。

 

長い時間、息を殺していたように思う。かくれんぼをした時に、押入れの中に隠れたときのような、息苦しい時間が過ぎていく。

そして、遠くから車が乗り入れる音がした。

私は弾丸のように飛び出して、大人をすり抜け、裸足のまま玄関を飛び出し、ストレッチャーに乗せられた祖父を出迎えた。月明かりに輝く白い布、車から漏れるオレンジ色の光、赤いテールランプ、目を腫らした母、険しい顔の父、毅然とした表情の祖母、銀色のストレッチャー、そして浮腫んで黄味を帯びた祖父の顔。

 

「おかえりなさい」と言えたと思うけれど、定かではない。私は号泣し、酸欠になり、朦朧としたまま眠りについた。そして朝になって、白い着物姿の祖父と改めて対面し、どうしていいのか分からないほど心乱れたまま、葬儀に参加した。

 

あのとき私は、どんなに泣いても涙は枯れないことを知らなかった。

恐怖に恐怖して動けない弱さが、取り返しのつかない結果をもたらすことも。